風を道連れに

☆あるボッチローディーの独り言☆

またまた寄り道

 

また痛ましい事件が起きてしまった。

大阪駅近くの雑居ビル4Fで、火災による一酸化炭素中毒により28名が死傷。

その火災の原因が放火と判明し、2年あまり前の”京アニ放火殺人事件”のおぞましい記憶が蘇ったのは小生だけではあるまい。

この雑居ビルの各階の出入り口は1ヶ所のみで、そこで火の手が上がったために、中に居た誰もが避難できずに煙に巻かれてしまった。

京都の事件の際にも思ったのだが、避難時の原則ともいうべき”2方向避難”の経路が何故確保されて無かったのか?現行法令の不備を思わずにはいられない。 

それにつけても放火犯は”己が愚かな行為”が、これほどの死傷者を出す事になると想像しえたのだろうか?

”想像力の欠如”最近の色んな出来事を見聞きするにつけ、老若男女を問わず、この最も人間的な思考が上手く出来ない人が増えている様に思う・・・。

 

さて先週上石津に行った日の事、多良峡に寄り道してから帰途に着いたのだが、関ヶ原から垂井へ向かう道すがらで「そうだ明神湖へ寄ってみよう」と急に思いついた。

明神湖は、伊吹山から東に延びる尾根先の菩提山麓にある人造湖で、入院中にYou Tubeで観てから行ってみたいと思っていた場所だ。

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森閑として水を湛える明神湖(Image)

r-53を途中で左に折れてr-257へと進む。

この道はロードバイクを始めて2年ほど経ち、ようやく遠出にも慣れた頃に走ったことがあるが、その時は”竹中半兵衛”の史跡を訪ねるのが目的で、その史跡の先に人造湖があるとはついぞ知らなかった。

 

竹中氏陣屋跡を過ぎてJR(垂井線)高架をくぐると道は細くなり、4mほどあった幅員が集落に入ると3mほどに狭まって車1台が通るのがやっとの状況。

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垂井線は東海道本線下りの特急と貨物しか走らない特異な線路

「これって本当に県道?」と思いながら進むと、正面にダム湖の堰堤が見えた辺りから道は更に狭まり2.5mも無くなってきた。

右は民家の石垣で左は川幅4mほどの水路、徐行でノロノロ進んで三叉路を過ぎた辺りで視線を先に投げると、何と民家の石垣が道路側に大きく迫り出しており、どう見ても小生の車が通り抜けられる幅員はありそうにない。

「こりゃあ駄目だぁ、万事休すだな」しばらく考えた末止む無く引き返すことにしたのだが、しかしそれからが大変だった。

バックで三叉路まで戻ってUターンを試みるが、Y字の上に幅員が狭くガードレールもあるので上手く出来ない。

狭い三叉路で何度も車の出し入れと切り返し操作を約10分、何とかUターンすることが出来た時は、ホッと一息つくと共に安堵のため息が漏れた。

 

そんな訳で、明神湖へ向かう気持ちも急激に萎えたのでそのまま来た道を戻ることに。

(居宅に戻ってGoogle Mapで調べたら、引き返したところから500mほど手前の神社前の三叉路を山側に進むのが正解だったが、それにしても県道よりも脇道が幅広ってどういうことよって感じ・・・。)

明神湖を訪ねるのは諦めたが折角ここまで来たので、竹中氏一族の菩提寺である禅幢寺に寄り道していくことにした。

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静謐な菩提山麓に建つ禅幢寺

駐車場に車を停めて門前へとゆっくり歩く。

以前訪れた時は春だったので少し華やいだ雰囲気の記憶があるが、初冬の今は辺り全体がひっそり閑として、そこはかとない侘しさが漂っており、人気のない境内をただ独り歩めば、気持ちが徐々に鎮まっていくのが判る。

境内の奥まった山際が竹中氏一族の墓所で、大小30近い墓石が静かに居並んでいる中、竹中半兵衛(重治)の墓は奥の左端。

小生の記憶では小さな墓石が歳月を物語る風情でそこにあった筈だが、目前の墓は白木の社に覆われて墓石は見えず、何だかこの場にそぐわない感じ。

「何でこんな無粋なものを拵えたんだろう?」とその美的センスの無さに、少し憮然となった。

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竹中一族の墓所             竹中半兵衛の墓

竹中氏は美濃の土着士族で、半兵衛の代に斎藤⇒浅井⇒織田⇒木下と次々に有力大名と主従関係を築き、歴史の表舞台に躍り出て活躍した。

特に、その働きは木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の軍師としてのものが有名で、人物像が三国志に登場する”劉備玄徳を輔弼した諸葛亮孔明”になぞらえられることも多い。

昔のこと、NHK大河ドラマで”太閤記”が放映されたが、ある回に”高橋幸治扮する信長に命ぜられて緒形拳扮する藤吉郎が半兵衛(役者は覚えが無い)に仕官を薦める為に隠遁する山中の庵を3度訪ねる”というシーンがあったのを覚えているが、これなども三国志の故事である”三顧の礼”を踏襲したものに外ならない。

もしこれが本当にあったことだとして、漢学を深く学んでいた半兵衛はその意味を理解しただろうが、農民からのし上がった身で漢学の知識の無かった藤吉郎が、目下の者を3度訪ねる事の意味を知っていたかどうかは分らない・・・。

 

禅幢寺を後にして今度は竹中氏陣屋跡へ向かう。

ここには明治の初めまでは、徳川の旗本となって6千石を領した竹中氏の陣屋があったらしいが、戊辰戦争の際に建物が明治新政府に没収されて荒廃し、今では陣屋跡として堀と石垣・櫓門が残るのみ。

在りし日の栄華を偲びながら、ここに住むことも無かった竹中半兵衛の像を櫓門を背景にして写真に収めた。

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竹中陣屋跡で睨みを利かす半兵衛像

「さてと、そろそろ帰ることにしよう」と車に戻り時計を見ると、PM2時を少し過ぎた時刻。

思い付きでとんだ寄り道をしてしまったが、もうどこにも寄らなければ3時には居宅に帰り着けるだろう・・・。