風を道連れに

☆あるボッチローディーの独り言☆

年の瀬に思う

 

年の瀬も押し迫って新年まで1週間を切ったが、今年は「何だか無為徒食に過ぎた1年 だったなぁ」と慚愧の念に駆られながら、過ぎし日々の事を思い起こしている。

コロナ禍による行動自粛が、この1年の世間一般の基本モードであったにせよ、ボッチローディーでライド中ほとんど他人と接する事の無い小生にはある意味無関係で、一応世間体を気にしながらも、西へ東へ南へ北へと思いつくまま気の向くまま、縦横無尽にロードバイクを走らせる筈だった。

しかし豈図らんや、変形性足関節症を患った左足首の具合は月日を追う毎に悪くなり、痛む脚でペダルを漕ぐのも次第に辛くなってライドも漸減、ついには10月に足首の人工関節置換術で入院生活を余儀なくされることと相成った・・・。

質量共に満足のいくライドが出来ずこの1年を締めくくる結果となったが「まぁ過ぎたことを悔やんでも仕方ない」と総括して、来る年は同じ轍を踏まない様に自戒するしかない。

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或る日のライド(関市弥勒寺官衛遺跡にて)

それにしても、この歳になってつくづく思うのは月日の流れの速い事。

1日があっという間に過ぎるから、1週間も「あれっもう土曜日かぁ」という感じで、 その積み重ねの1年は正に”光陰矢の如し”の形容がピッタリ。

時間の感覚って人それぞれだろうが、小生の場合は60歳を過ぎた辺りから1日が短い なぁと思いだして、以降それがどんどん昂進して今に至っている・・・。

”歳をとると体感時間が短くなる”という事に関しては、ジャネーの法則(時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する)で説明される場合が多いが、小生にはどうもこの説明はしっくりこない。

幼児の頃の時間感覚なんて誰も覚えてないし、思春期や青年期の1日は今の数倍も長く感じられたということも多分無いので、一括りに”心理的時間は年齢に逆比例して短くなる”と言われても、どうも納得できない。

(但し、人生のゴールが遠くない先に見え始めてからは、時間の長さを意識したり残りの歳月を考えて「少ないなぁ」と思うことはあるけど。)

 

”歳をとると体感時間が短くなる”の理由の説明として「これだろうな」と思うのは、 ”身体の代謝機能が落ちる(つまり動きが鈍くなる)と、心理的時間と実際時間に齟齬が生じて時間が早く過ぎる様に感じる”というもの。

歳をとると代謝機能が落ちるのは自明で、本人が意識するorしないに係わらず、何かにつけて行動が緩慢になる。

例えばウォーキングで、10年前までは1時間に4.5kmは楽勝に歩けたのに今では3kmを 歩くのがやっととか、山登りで、1時間で450mの標高獲得は普通だったのに精々300mが限度とか、昔は1時間で出来たことが1.5倍も時間がかかっているとすれば、これらの行動に対する自分の時間認識と実際時間を整合させるべく、時間が早く過ぎたような 錯覚が脳に生じるのは至極自然な反応だ。

まぁ何れにしても、本来は不変の時の流れを速く感じたり遅く感じたりするのは人間が”考える葦”である証拠の一つという風にも言える・・・。

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冬の忍野八海(Image)

さて、この暮れから年明けにかけて、東京に住む孫(小3と小1)が岐阜に遊びに来るというので、いつもよりチョット早いが大掃除を敢行した。

と言ってもやるのは、家の窓拭きに室内照明の球替え、台所換気扇の清掃といった些細なもので、大掃除というにはチョット気が引ける。

昔(小生が子供の頃)は、年末といえばどの家庭でも家族総出の掃除をしたものだが、最近では、ついぞそんな光景は見掛け無くなり、”年末の風物詩”が無くなっていく事に一抹の寂しさを覚える今日この頃ではある・・・。