先日のTVで富士登山をする人達の行動を追った番組を放映していた。
そこには、およそ高山を登るに相応しくない服装の登山者や暴風雨が吹き荒ぶ中なおも先に進もうとする登山者、高齢の登山者など様々な人達が登場して「おいおいそれってどうなの?」と思うと同時に、富士山登山の大衆化(チョット古い言い方?)も来る所まで来たなとの感も深くした。
富士山はその優美な姿に騙されるが、実は自然条件のかなり厳しい山。
例えば下界の気温が35℃の酷暑にある時、3,776mの山頂付近では15℃前後(登山起点の一つである吉田口5合目では20℃前後)と厚手の長袖が必要な気温だし、地形的に 天候が急変し易く突然の雷雨や強風に見舞われる(一旦そうなればそこは過酷な場所に変貌する)こともしばしばで、そういう富士山の実相を登山者自身が知っていなければ最悪生命の危険すらある。
しかし富士山に登る人達の多くは”山の初心者”で、そう云うことにはかなり無頓着。
それは山歩きの基本(歩幅とペースの抑制、水分補給、体調管理等)を押さえていればかなり防げる頭痛・嘔吐・全身倦怠などの高山病の発症率が極めて高い(ある調査では登山者の3割強が発症したと報告)ことからも伺える。
間もなく(9月10日)富士登山のシーズンは終わるが、今年も山は混雑しただろうか?
小生はこれまでに3度富士山に登ったが、その寡少な実体験の中から導き出した結論は”富士山は登る山では無く遠くから眺める山”と云うこと。
色んな意味で今の富士登山の現状(押し寄せる人波やそれに伴う環境破壊、最低レベルの山小屋etc : 独断と偏見が含まれます)が続く限り4度目を登ることは無い・・・。
さて、ここ数日は台風11号の影響で天候不順が続いたため、止む無く近場を2時間ほど実走するかローラー台で汗を流すかしていたが、今日は終日晴天が続きそうなので、 久し振りに関から山県にかけての山辺を武儀川に沿って走ることにした。
初秋を迎えて少し涼やかな風が吹く様になった長良川沿いの道を関へと走る。
ペダルを漕ぎながらふと視線を川面に転ずると、いつもは澄んだ流れが雨で濁り水量も増してその風情は何だか寂しげ。
「やっぱりこの川には清い流れが似合うなぁ」そんな思いに浸っていると、子供の頃に浅瀬で魚取りをして遊んだ記憶がありありとした実像を伴って脳裡に蘇ってきた。
あの頃の長良川は遊びの場として身近な存在だったが、今はコンクリート護岸のため 川に近づくのも難しくなった。
防災上の必要性は解るが、自然がある意味遠くなっていくのは淋しいことだ・・・。
美濃に入る手前で道を左に折れ山際を武芸へと走っていると、山懐に抱かれる様に建つ山小屋風の民家が目に入った。
その何とも感じの良い佇まいにどんな人が住んでいるのか興味が湧いたが、通りすがりの小生に確かめる術は無く勝手に想像するのみ。
山歩きに没入していた昔のこと、山小屋の生活に酷く憧れて隠遁を夢見たことがあったが、ここの住人も同様の経験があるのだろうか?
そんな愚にもつかないことを思いながら路傍に佇んでいると、郵便配達員が訝し気な顏で傍を通り過ぎていった・・・。
武芸から美山へと武儀川沿いの道を快走してきたが、体温が上がり脱水を来したのか?急に脚に疲労が溜まりクランクが回せなくなった。
「休む処は無いかなぁ」と辺りを見廻しユックリ走っていると最適な緑陰が目に入ったので迷わずストップ。
そこは人気のない村社で、その簡素な佇まいは小生の好みにピッタリ。
苔むした参道に腰を下ろして静寂な空間を愉しんでいると、何やら音がするので視線を向けるとそこには1匹の野猿が居た。
どうも子猿の様で草むらから何かを取って食べてる様子。
「おや食事中かい」と声には出さず注視すると、その視線を感じたらしい子猿は慌てて立ち上がり後を振り向きつつ山の方へと逃げていく。
「ゴメンゴメン驚かす気は無かったのに」と遠ざかる子猿に小さく謝った。
神崎川まで足を伸ばして清澄な流れを愛でたかったが、武儀川が濁っているので神崎川も推して知るべしと行くのは断念して帰ることにした。
帰路は平井坂トンネルを貫けて伊自良⇒安食⇒岐阜市街へと走る既定のルート。
今日はバイクがDe Rosa(カーボンホイール/リムブレーキ)なので長い下りなら敬遠だが平井坂程度の下り距離なら多分問題ない・・・。