彼岸頃に咲くのでヒガンバナの別名があるが、今年は9月末まで暑かったからか?10月になってようやく開花の盛りを迎えた様だ。
アジサイやキンモクセイなど植物が季節を知って花を咲かせるメカニズムの詳しい知識は無いが、一般的には葉が日照時間の長短を感知して開花時期を決めてるらしい。
それじゃぁ葉が無いヒガンバナはどうして開花時期を知るんだろう?という疑問が湧いたので、早速Netで調べたところ地中温度がその鍵だった。
ヒガンバナは4月頃から地下茎に花芽が付いて地温の上昇と共に成長するが、地温が20℃を超えるとその成長が一旦止まって夏の時期をやり過ごし、20℃を下回るのを待って再び成長を始めて開花するという訳だ。
インテリジェント・デザインは信じないが、生命の様々な現象は本当に驚嘆すること ばかりだとつくづく思う。
この辺りで曼珠沙華の名所と云えば津屋川。
堤防の法面を2㎞ほどに亘って埋めつくす様に群生する景観は、正にこの時期の風物詩と言える。
「今年の咲き具合はどうかな?」という訳で急遽訪ねてみる事にした。
津屋川は養老山地の麓にあり、近くの二ノ瀬はヒルクライマー御用達の峠道。
だから休日なら途中の往来で結構ローディーの姿を見かけるのだが今日(平日)はどうだろう。
De Rosaを準備しながらルートを考える。
養老を経由するルートや長良川沿いに迂回するルートなどロードバイクでの走り易さを念頭に幾つかを思い浮かべるが、今日は12時頃には帰宅していたいので墨俣⇒輪之内⇒今尾橋⇒津屋川と辿る最短距離のルートをとる事にした。
まずは居宅を出て墨俣を目指す。
墨俣は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が織田信長の美濃攻めに際して一夜にして城(砦)を築いて出世の足掛かりとしたとの逸話が残る地。
戦国時代には交通の要衝だったらしいが、岐阜城(金華山)までは10㎞程の距離がある所なので、ここに砦を築くことが戦略上どういう意味があったのか凡人の小生には全く分からない。
それにしても昔の人の距離感覚と健脚ぶりには感心する。
10㎞もの距離を隔てて対峙し、しかも相対合戦をしようというのだから・・・。
墨俣からは長良川沿いを南下し安八町で南西方向に進路を変更、輪之内町中心部を通って揖斐川にかかる今尾橋を目指す。
部分的に車両通行の多い道も走るが、大半は車があまり通らずしかも舗装が荒れてないローディー向きの走り易く気分も晴れやかになる好い道だ。
これは小生の経験から言える事だが、岐阜県内の自家用車保有台数は128万台で全国で17番目の多さにも拘わらず、車両通行が少ない走り易い道をローディーが見つけるのは比較的容易だと思う。
「それって田舎だからじゃない?」という穿った見方もあるが、小生は全般的な道路 状況の良さが背景にあると考える。
多くの人達が大都会を目指すが、案外地方に住む良さがこんなところにもあるというのは言い過ぎか・・・。
今尾橋まで来れば津屋川まではあと少し。
遠くに見えていた養老山地も真近になり先を急ぎたいところだが、ここまで25㎞余りを一気に走って喉も少し乾いたので、水分補給を兼ねて暫時休憩をとる事にした。
清澄な秋空の下で山並みのスカイラインが眼に映える。
その稜線を追ってあの辺りが二ノ瀬かと思う所で目を凝らすと山腹に登路らしきものが見えた。
あそこでは今日もきっと誰かがヒルクライムに汗を流している事だろう。
今尾橋から津屋川までは車通りの多くなった道を走るので、散漫になった気分をもう一度引き締めて背後に注意しながら路側帯からはみ出さない様に慎重に走る。
大概のドライバーは走るバイクから距離を取って追い越していくが、たまにスレスレを追い越されヒャッとする事がある。
邪魔なバイクへの腹いせの心算なんだろうが、万一接触して転倒したらケガだけでは済まないかも知れない。
そんな時は追い駆けて「何を考えてるんだ!」と怒りたくなる。
10分ほど走って突き当りの斜面を駆けのぼるとそこが目的の津屋川の曼珠沙華群生堤。
まず朱色の色彩が眼に飛び込んでくるが緑色の部分もかなりある。
まだ早かったかなと一瞬思ったが、既に盛りを過ぎて色の褪せ始めた花びらもあるので開花の盛りはもう過ぎたという事か?
見物客はそこそこ居るが前に訪れた時ほどではないのがその証左なのだろう。
見物客の雑踏から離れた場所まで移動して曼珠沙華を愛でながらゆっくり休んでいると、対岸の畑地の中を養老鉄道の単車両がノロノロと通り過ぎていった。
「随分と昔に鈴鹿登山の帰路で養老鉄道に乗って帰ったことがあったなぁ」セピア色に褪せた記憶を辿りながら束の間を過去の時空に遊ぶのだった・・・。
さぁ帰ろう。
帰路は養老経由のルートにするかな。