風を道連れに

☆あるボッチローディーの独り言☆

関ヶ原ライド

関ヶ原は居宅から真西の方角、伊吹山地が終わり鈴鹿山脈が始まるその鞍部の小さな 盆地にある町だ。

関ヶ原の地名を、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)を総大将に両軍が「天下分け目の関ヶ原」合戦をした場所として知る人は多いが、それ以外に幾つもの「天下分け目」がこの地にあることを知る人は少ない。

今回はそんな関ヶ原を養老を経由して回遊する久々のライドだ。

今日は関ヶ原の辺りで長い登路があるが、そんなに傾斜がキツイ訳では無いのでバイクはDe Rosaにして居宅を出発する。

 

秋も深まり澄明な青空の下を西に向かって街中を進むと、遠く伊吹山が見え隠れして 早くおいでと手招きしている様だ。

関ヶ原伊吹山の麓、2時間も経たずその辺りを走っているであろう己が姿を想像すると、ロードバイクという軽快な乗り物の恩恵を思わずにはいられない。

f:id:yoshijiji:20201114111304j:plain

養老から関ヶ原にかけての遠望

いつもの様に墨俣で長良川を渡って西南方向にある養老に向けて進路を変える。

次に渡る揖斐川の橋は3㎞ほど先、車の通らない道を選びながらの快調な走りに気分も上々だ。

揖斐川を渡ると暫くは右岸堤防道路を行くが、この道はそこそこ車の交通量があり狭い路側帯に沿って注意して走らなければならないので本当は通りたくない道。

良い脇道が無いか探しているが、遠回りだったり人家の多い細道だったりしてどれも バツで当分は我慢の日々が続きそうだ。

 

福束大橋の出合で揖斐川を離れ続いて牧田川を渡ると養老まではあと少し、ここからは3通りのルートがあるが一番南の養老の滝へと通じるルートを選択した。

養老の滝は孝行息子の伝説が残る名瀑だ。

「その昔、近在の貧しい若者が目の不自由な老父に孝行しようと山中に分け入り芳醇な香りの酒泉を見付け、それを瓢箪に入れて持ち帰って老父に飲ませると目が見えるようになった。

それを聞き付けた時の天皇が酒泉を取り寄せ飲んでみるとたちどころに病が癒え、感激した天皇は若者に褒美を与えると共に元号を養老に改元(717年)した。」

f:id:yoshijiji:20201114111938j:plain

1913年に建てられた養老駅の駅舎

滝へは何度も行っているので今日はスルーすることにし、養老駅前(養老駅はローカル線の養老鉄道を代表する駅舎で、そのレトロな風情を求めて鉄道マニアが良く訪れる ところ)を通って先を急ぐ。

 

養老から関ヶ原へ向かう途中に「やきにく街道」と呼ばれる地域がある。

上質な肉(飛騨牛)を格安に提供してくれる店が立ち並び、それを求めて休日には近在から多くの食客が訪れるのだが、それには訳がある。

昔からこの辺りには食肉を扱う人達が多く住んでいたのだ。

江戸時代に士農工商身分制度があったのは誰もが知っているが、その他に穢多・非人と称される人達がおり、被差別民としてその多くが食肉業や芸能を生業にしていた事を知る人は今や少ない。

人の出自や生業に貴賤の別などあろうはずも無いが、為政者が体制を維持する方便と して設けた制度であり、力なき人々はそれに従って生きるしか術はなかった。

驚くべきことに、この被差別民への差別意識が昭和30年代まで日本人の意識の底流にはあった。

小生が子供の頃、近所の男性が美人の奥さんを娶るとおばさん連中は陰で囁きあったものだ。

「しっかり身上調査したんだろうねぇ部落民かもしれないよ」

被差別民は外部の人との婚姻が難しく近親者婚が繰り返されたため、美形の男女が多いと言われていたからだ。

今でも嫌韓・嫌中などといって他国の人達を見下す連中がいるが、自分をどれ程の人間と思っているのか聞いてみたくなる・・・。

 

牧田川を渡る橋で上石津への道と分かれて関ヶ原方面へ進み、登坂が始まる三叉路で左折して牧田関ヶ原線を今須に向けて走る。

f:id:yoshijiji:20201114112738j:plain
f:id:yoshijiji:20201114112757j:plain
山間の道を走る牧田関ヶ原

ここから今須までは100mの高度差をアップダウンを繰り返しながら5㎞ほどで上る緩い斜度の山間の道、車の通行も少ないので周りの景色を楽しみながら走れるのが良い。

 

今須からは山沿いの旧中山道を走って関ヶ原へと走る。

f:id:yoshijiji:20201114113047j:plain

山辺に沿って中山道を往く

中山道をしばらく走ると常盤御前源義経の母親)の墓や不破ノ関址などの旧跡があるので今回初めて寄ってみることにした。

f:id:yoshijiji:20201114113607j:plain

常盤御前の墓(脇に芭蕉の句碑もある)

f:id:yoshijiji:20201114113802j:plain

板書きがあるだけの関所跡(チョットがっかり)

不破ノ関は飛鳥時代天武天皇が設けた関所で、これより東を東国(関東)とした  謂わば天下分け目の関所でもある。

また、天武天皇大海人皇子)はこの関所を設ける前年に壬申の乱をこの地で戦い、 皇位継承を争った大友皇子聖徳太子の子)を破って天皇に即位したので、この戦い も正に天下分け目の合戦であった。

関ヶ原は日本の真ん中辺り(人口中心が岐阜県郡上市にある)に位置するからか、この他にも天下分け目(分水嶺)的な事柄が多い。

食で言えば、出汁は鰹(濃口)か昆布(薄口)か・ネギは白ネギか青ネギか・餅は角餅か丸餅か等は関ヶ原辺りで東西に分かれるし、ひな人形の飾り方(内裏様の位置)や マクドナルドの略し方(マックかマクドか)もこの辺りで東西に分かれる。

明治以降交通の利便性が発展して東西の垣根がなくなったものの、探せばまだ出てくるだろうと色々想像するのも面白い。

 

関ヶ原方面にライドするといつも立ち寄って休憩する陣場野公園(家康最終陣地址) 近くに、関ヶ原古戦場記念館がオープンしたと先日のローカルニュースが伝えていた ので行ってみたが、COVID-19対応で入館は事前予約制となっており残念ながら入れなかった。

まぁよく調べないでノコノコ行った自分が悪いと反省しつつ帰路につくことにした。  

帰りのルートは関ヶ原バイパス沿いの間道を直線的に一気に下って垂井に至る最速  ルート。

車の通行が殆ど無いので下り基調の道を35~40㎞のスピードで走るが、部分的に舗装が悪いところでは軽く減速してパンクなどのアクシデントで転倒しない様に注意する。

 

垂井まで快調に走ってきた。

この町は古くからの宿場町で中山道美濃路東海道中山道を結ぶバイパス的な路)の分岐点があり、そのどちらを走っても帰れるのだがここが思案のしどころ。

f:id:yoshijiji:20201114115146j:plain

追分の道標(右 美濃路 左 中山道

美濃路は距離こそ短いが、大垣の街中を通るため車との並走での気使いや多くの信号での停止が煩わしい。

一方、中山道は若干遠回りで一部区間で車との並走や信号が続くところもあるが、概ねマイペースで走れてストレスが少ない。

うーん、遠回りと云っても数㎞の事で時間にすれば10分と違わないな・・・」

という訳でここはマイペースで走れる中山道で帰る事にしようと決めた。 

あとは赤坂から神戸へとひた走り、揖斐川長良川を渡って居宅を目指すだけだ。

f:id:yoshijiji:20201114115503j:plain

揖斐川にかかる軽車両用鉄橋(右の鉄橋は東海道本線