風を道連れに

☆あるボッチローディーの独り言☆

冬日和橋巡り

 

お年玉付き年賀はがきの当選番号が先日発表されたが、残念なことに切手シートの番号が1枚あっただけだった。

毎年「今年こそは1等が・・・」と期待してみるのだが、いまだに1等はおろか2等さえ当ったためしは無く、切手シート2~3本が出れば大当たりといったところ。

もう半世紀近くもこれを繰り返しているのだから、こと年賀はがきに限っては”籤運”が無いということの明確な証左と言えるかも知れない。

 

子供のころは、駄菓子屋で買う”くじ付き菓子”で1等がよく当たり、子供心に「俺はくじを引くのが上手い」などと不遜に自負していたが、それらで全ての”籤運”を使い切ってしまったのだろうか?それ以降は”くじの大当たり”からは見放されたままだ。

 

宝くじを買っても、たまに当たるのは末等ばかりで高額当選は”夢のまた夢”

過去に1度だけ10万円を当てた様な記憶があるのだが、その当たり券を換金したという記憶が全く無いことからすると、「宝くじで10万円当たった」というのは、案外脳内で造られた贋記憶かも知れない。

まぁ真偽のほどは何とも分からないが、宝くじを買うのは高額当選を願うからで、高々10万円ぽっち?(大きく出たぞ)が狙いじゃ無いので今更どっちでもいいかぁ・・・。

 

 

さて、年明けから(小生の体調同様に)不順な天候が続いていたが、今日は”冬日和”でバイクで外出するには願ってもない陽気。

まだ遠出できる程には体力回復してない(痰の出る咳がなかなか治らない)ので、近場の平坦地をぐるっと回ることにして、緩慢な動作でライド準備を終えた。

 

まずは街中を抜けて笠松へと向かい、そこからは木曽川右岸沿いを下流方向へと走る。

走り始めて暫くすると腕と腰に強い疲労を感じ、1か月近くバイクに乗らなかったブランクを痛感したが、それも徐々に緩和してきたので「やれやれ、ようやく慣れたか」と一安心。

とは言うものの、多分こう云うことってこれからも度々あるんだろうなぁ・・・。

冬の晴れた日は遠くまで見えるのが嬉しい

尾濃大橋を越えた先で堤防道路に出ると視界が大きく開けた。

大気が澄んでいるので遠くまで良く見え、恵那山の左に白く輝いて連なる中央アルプスの高峰群が眼に映える。

少し間をおいて御嶽山乗鞍岳の3千m峰、その左の北アルプス北西端部の山々(黒部五郎岳薬師岳辺りか?)も白く光って存在感を示している。

路傍の空地で暫くその景色を愉しんでからまたぞろ走り出したが、今日はどうやら休憩と寄り道が多いライドになりそうだ。

 

濃尾大橋まで来たが、普段はここで橋を渡って左岸側を走るところをそのまま直進。

その理由はこの先で架橋工事中の新濃尾大橋を見たかったからで、ようやく橋桁が全て繋がったのを見て「やっとここまで出来たかぁ」と得心したが、当初完成予定から2年以上遅れても終わらないこの工事に、地方行政の財政的な行き詰まりを感ぜずにはいられなかった。

開通は2025年とか?まだまだかかるねぇ

右岸堤防道路は左岸側に比べて舗装状態が悪く、それにストレスを感じて悪態?を吐きながらも8kmほどを走って木曽川大堰(馬飼大橋)まで来た。

「さてこの先どう走るかな?」と暫く考えたが、「まだ帰路を採るには早過ぎるなぁ」の思いもあって、橋を渡って東海大橋へと向かうことにしてハンドルを左に切る。

橋の中ほどで揺蕩う木曽川の流れに眼を落すと、水鳥の群れが閑に遊んでいた。

多分「今日の陽気は水鳥達にとっても快適なんだろうなぁ」と己の心証を投影して勝手にそう思った。

木曽川大堰を渡り愛知県へ         東海大橋を渡り岐阜県

東海大橋で木曽川長良川を続けて渡り、そのままr-8を西に直進して海津へと向かう。

信号交差点が多くてイラつくが、裏道に走路を変えても真っすぐ進めずに右左折を繰り返さなければならないのがこの辺りの道の欠点?

「ここは我慢だ」と自分に言い聞かせて走り続けると、やがて視線の先に揖斐川に懸る福岡大橋が見えてきた。

ここまで来ると養老山地も近いが、今日は養老方面には向かわないので山麓を走ることもない、ただ山並みを眺めながらその景観を愉しむだけだ。

 

揖斐川と津屋川を隔てる堤防道は今日のライドコースの中で最も気の休まる走路。

風もなく暖かい陽光が降り注ぐ道を急いで駆け抜けるのは”モッタイナイ”ので、路傍にバイクを停めて草地で一休み。

眼を閉じて音の無い世界(歳をとると可聴音域が狭くなるのは周知?の事実)に精神を沈めると、身体から力が抜けて心地良い時間が過ぎていく。

仰向けの姿勢のまま10分ほども微睡んでしまったが、急ぐ必要もないとゆっくり起き上がって辺りをもう一度見回した。

誰とも行き会わず走路を独り占め

今尾橋を渡って揖斐川に別れを告げた後は、大榑川に沿う堤道へと走路を変えて輪之内へと向かう。

冬の桜並木は殺風景ではあるが、よく見るとその枝には小さく固い蕾がいっぱい付いており、もう春の開花の準備が始まっている様だ。

「今年のサクラはどうかな?」何処までも続くピンクトンネルの画像を脳裏に描いて、夢想世界に束の間タイムスリップして遊んだ・・・。

 

長良川右岸を安八⇒墨俣と北上して岐阜の南西端まで帰ってきた。

ここからは長良川左岸の河川管理道路に走路を変え居宅へと向かう。

久々のライドで若干疲労感があるが、あと8㎞ほどなので無事帰還できそうだ・・・。

居宅に向かう前に最後の休憩(岐阜市本庄付近)

 

 

 

 

 

新年早々愚痴る

 

年明け早々風邪に罹患してしまい、診察を受けに医院に行った以外はほゞ外出をせずに1週間以上が過ぎてしまった。

歳をとると基礎体力が低下するだけでなく気力?も一緒に衰えて、行動に無意識の制限がかかるのが「何とも情けない感じ」と言ったら若い人には笑われるかも知れない。

しかしまぁそれが年寄りの現実で、このところ顕著に疲れを感じる様になった小生としては、「これは素直に受け入れるしかないなぁ」と諦めざるを得ないのだ。

 

それはともかくとして、元日の能登半島地震では、小生の住む岐阜辺りでも震度3~4の揺れがあり、そのユサユサと続く振幅の長い横揺れに「果して老朽化した我が家は耐えられるか?」と一瞬不安な思いが脳裏をよぎたほどだった。

世界全体の発生地震の18.5%が、同じく1%弱しか占めない日本の国土で起きているという事実が示す通り、世界有数の地震国に住む我々が、いつなんどきその災禍に遭うかは神のみぞ知る事柄なのだが、今回の地震で不幸にも亡くなられた人や、家屋の倒損壊により、今後の生活困難を余儀なくされた多くの方々へと思いを馳せる時、「神様仏様も在ったもんじゃないなぁ」と、天を恨みたくなる思いに駆られるのは小生だけではないだろう・・・。

 

 

報道によれば、被災地では既に復興に向けた動きが始まっているが、元々交通利便性の悪い地域が多く、しかもライフラインが各所で寸断されているため、まだそれが軌道に乗ったと言うにはほど遠いのが実態の様だ。

都市部なら最優先で行われるこれらの復旧工事が、未だ遅々として進まないのはそこに投入される人・物の絶対量が極めて少ないからで、地域格差という”如何ともしがたい差別”がその背景にある。

大規模災害に対して地方行政のやることに限界があるのは仕方ないが、それを肩代わりする国がその責務を充分に果たせてないのが今の現状ではないか?

極論だが、多くの国民に不人気の ”関西万博” に人・物を投入するより、それを被災地の迅速復興へと振り向けた方が、低迷が続く岸田内閣の「支持率回復に寄与するんじゃないか」と、物事を斜視する性癖の小生としては心密かに思っている。

 

さて話は全く変わるが、小生のロードバイク歴も早いもので今年で13年目へと突入することになる。

思い起こせば、1年目はバイク(高いサドルと前傾姿勢)に慣れるのがやっとで、距離も30kmも走れば「良く走ったぁ」という感じだったのが、2年3年と経つとバイクに乗る頻度も増えて、1回の走行距離も70~80kmを無理なく走ることが出来る様になった。

初の100km超えLong rideは4年が経った頃で、数は少ないが150km、200kmと走ったのもその後の数年間のことだ。(今はそんなLong rideにはとんとご無沙汰・・・)

 

通算走行距離が4万km(地球1周回)を超えたのが6年目で、このペース(2~3回/週間のride)でいけば「8万km走破は4~5年先だな」と随分楽観視していたのだが、そんな”捕らぬ狸の皮算用”もその後、左足首の関節症が悪化して2度の手術(脛骨切術と人工関節置換術)を受けることとなって大きく狂ってしまった。

今は3回/2週間の頻度でrideするのが精いっぱい?なので、年間の走行距離は5,000kmを僅かに超えるくらいか?

だがこのペースが維持できれば、今年はちょっと無理でも来年には通算8万kmの大台に乗せることが出来るかも知れない。

或る日の墨俣城伊吹山


そのためには今の基礎体力を保つことが肝要だが、冒頭でも触れたとおり最近では疲れを体感することが多く、先日も妻に「最近妙に動きが爺さんぽくなったね」と言われてしまった。

まぁ自他共に認める”年寄りローディー”と云うことがはっきりした訳で、それを自覚しながら、今年もそこそこ頑張って走ってみますかぁ・・・。

 

 

 

 

 

問題は精神力

 

日本海側の各地に大雪をもたらした寒波が、太平洋側へもその舌を伸ばして濃尾平野の北辺部に今冬初の雪を降らした。

今朝起きがけに居間のカーテンを開けて窓外を見ると、向かいの家の屋根にうっすら雪が積もっており、小生の住む辺りもどうやら夜半に人知れず雪が舞った様だ。

この辺りではクリスマス前に初雪を見ることが多いので「例年通りだな」という感じだが、雪が降ると冬もいよいよ本番と云う訳で、これまで先送りにしていた”或ること”をついにやらなくちゃならない。

 

その”或ること”とは車のタイヤ交換で、夏用から冬用のスタッドレスに替えるのだが、この作業、昔は”大した手間でもない”と思っていたが、歳をとった今ではこれが結構な”重労働”なのだ。

車は小生と妻ので2台あり、計16本のタイヤを脱着・清掃して倉庫に片付ける訳だが、動作が鈍い上に腕力も不足気味(タイヤってこんなに重かったけ?と思うことしきり)おまけに普段とらない姿勢で腰が痛くなり休みながらやるので、結局全ての作業を終えるのに4時間近くかかってしまった。

まだこれまで自前でやってきた色んな事柄を他人に委ねることは無いが、タイヤ交換の苦労からしても、近い将来にはそう云うものが必ず出て来る筈。

歳を重ねる毎に衰える体力知力に”待った”をかける術は無いのかなぁ・・・。

 

 

さて今日は、先回予想外の強風で断念した関ケ原方面へのライドをリベンジすることにした。

多分これが年内最後のライドになると思うが、年初のライドが木曽川CRを犬山方面へと走ったから、奇しくも”東奔西走”してこの1年が終わると云う訳だ。

 

街中を抜けて長良川左岸堤防に出ると、一気に視界が広がって爽快な気分が小生の全身を満たす。

眼に入る景色は走りを助ける栄養剤みたいなもので、視線を遠くへ投げながらペダルを漕げば、不思議と脚が軽快に回り出して気分も上がる。

しかし、西寄りの少し強めの風が吹いており若干不安が募るのも事実で、「風よ止んでくれ」と願うがそれはどうも天に届きそうにない。

まぁ行きの向かい風は帰りの追い風で結局は”行って来い”なんだけど・・・。

目指すはあの山の麓

河渡橋を渡って旧中山道へと走路をとる。

この道は街道沿って続く家並が風を和らげてくれるので、向かい風に抗って走る時には有難い。

安全配慮でスピードを抑える必要があり少し遠回りにもなるが、そんな不満は楽に走れる満足感に比べたらどうってことは無いと独り納得して走る。

 

穂積を過ぎて美江寺近くまで来ると再び視界が大きく開け、進行方向正面に青い池田山とその奥の白い伊吹山の山塊が大きく望めた。

これまで伊吹山の冠雪は降っては消えていたが、この雪は来年4月下旬まで残る根雪になるに違いない。

伊吹山には雪がよく似合うので、「なるべく長く残っていてほしいなぁ」と自分本位に思った次第である。

秀麗な山容の伊吹山には高山の趣が・・・

巣南⇒神戸と旧中山道を辿って赤坂まで来たところで、どういう風の吹き回しか?急に金生山に登る着想が頭に浮かんで(少し思考回路が狂った?)行先変更となった。

(御蔭で西濃鉄道の踏切で、初めて石灰石運搬貨車が通るのを見る幸運?にも恵まれたけどね)

 

子安神社駐車場までの緩坂で坂上がりの脚を造ってからヒルクライムのスタート。

いきなり12~18%で200mほども続く坂なので、ギアは最初から34T×32T(ギア比1.063)にしてユックリ上るが、それでも息が次第に上がって腿もどんどん張ってくるので、少し蛇行気味にして斜度を下げる姑息?な手段に打って出る。

そうこうしてやっとの思いで金生山神社前まで来ると、斜度も緩んで少し楽が出来るが気分的にははやくもギブアップ寸前。

「もうちょっと頑張れるぞ」と自己暗示をかけて先へと進んだが、それも結局は最後の悪あがきに過ぎず、14~23%で更に上へと続く坂を目の当たりにしたところで、ついに我慢の限界が訪れた。

子安神社前から始まる激坂         延々と続く激坂にギブアップ

あと400mほども続く激坂なんて「今の脚力じゃとても無理」と坂を少し下り、展望の良い所で休憩したが、豈図らんや5分も休むと脚の疲れはどこへやら?

どうも問題の本質は脚力というよりも精神力にあったようだ・・・。

石灰プラントの向こうに伊吹山が       金生山中腹からの岐阜市街遠望 

明星輪寺まで行く筈が不甲斐なく終わったので、代償(小生の気分的なものだけど)として昼飯大塚古墳まで足を延ばしてから帰ることにした。

あそこから見る伊吹山もソコソコ絵になって小生は好きだからね。

  昼飯古墳と伊吹山           揖斐川橋梁を渡って帰った

 

 

 

 

 

 

風の功罪?

 

師走も中頃になると、「そろそろやらなくっちゃ」と思うことの一つが年賀状書きだ。

年賀状の本来の性格は、年始挨拶に行けなかったり近況が分からない遠隔地に住む知人等への挨拶状の筈だが、それを近在の日頃会う知人等にも出す風潮が世間に浸透(最近はLINEで簡便に済ませる若者が多いらしいが)しているので、これまでは小生もそれに倣ってきたのが実情。

そんな訳で、この無定見?な風習にいつまでも引きずられるべきじゃないと、ここ数年は「もう止めたいなぁ」と思っているのだが、いざとなるとそれを実行する ”勇気” が 無くズルズルと続けているので、それが我ながらなんとも情けない。

しかしそれでも、現役の頃に比べてリタイヤした今は出す枚数も3割方減ってるから、少しはその思いを実行に移してきたと言えなくもないかな?

年賀状のimage

小生の場合、年賀状の作成は昔は木版刷りと手書きだったが、それが ”プリントごっこ” なる孔版印刷器に代わり、更にパソコン+プリンターへと代わって、今では格段に簡便且つ短時間で作成できる様になったのは事実。

そんな中で手間なのは年賀状に一言添える文面で、相手毎に幾つかを考えなくてはならないし、これは自筆なので達筆ではない文字書きにひと苦労するのはいつものことだ。

 

なんのかんのと愚痴は口から洩れるが、年賀状のデザインはもう作ったしプリンターの交換インクも購入したので、あとは郵便局で年賀はがきを買い求めるだけ。

結局は惰性になるけど、今度の年始も近在の知人に小生からの年賀状が届くことになりそうだ・・・。

 

 

さて今日は、「久々に関ケ原方面へライドするかぁ」と決めて居宅を出た。

昨日は寒冷前線が残ってほゞ1日曇り空の天気だったが、今日は雲一つない快晴なので「家にすっこんで居てはもったいない」と思った次第。

ところが、居宅付近では無かった風が開けた場所に出るとかなり吹いており、おまけに結構肌寒い。

「こりゃ風に体温を奪われるぞぉ」とウインドブレーカーを着込んで寒さは消えたが、出がけにアンダー1枚の重ね着を渋ったのを早速後悔することになった。

 

街中を抜けて長良川堤防に出ると風は更に強く吹いており、薄穂や旗竿が東へと靡いているので強い西風であることが判る。

「拙いなぁ・・・」これから西に向かって30km近く走るのは相当辛い仕事だ。

敢えて苦しさを求めるマゾ的性格でも無い(坂嫌いがその証拠)ので、ここは計画変更を決意するのに躊躇は無かった。

こんな風が強い日に遠出するのは疲れるだけ、長良川河川敷の管理道路を往復しがてら平田リバーサイドの周回路を何周回か走るのが適当と、早速堤防スロープを下って管理道路へと向かった。

長良川河川敷の河川管理道路(岐阜市河渡付近)

長良川岐阜市域は西南方向に流れて羽島より南方向へと下るので、暫くは風に抗って走るしかない。

20km/hrに満たないスピードでも結構脚にきて息も上がるが、もうちょっと走れば風が横からに変わるので「ここは我慢だ」と自分に言い聞かせて耐えた。

強風に向かって走るのは今の小生には重労働(岐阜市日置江付近)

福寿町(羽島市)まで来た時、眼に入った路肩の看板の”無料配布”の文言に強く興味をそそられる。

こんなところで「何を無料で配るの?」「ラジコン模型飛行場のイベント?」等と勝手に思索しながら先へと進むが、結局その答えはようとして分からず仕舞い。(この時点ではね)

この先にも看板があったが何を配るのかは謎のまま

道幅のある管理道路を独り占めするのは「最高!」と周囲に視線を投げながら快走していると、前方からライトを点けたオートバイが走って来たので「ほう、珍しいねぇ」と横を過ぎるのを見送ると、直後をロードバイクが追走していた。

どうやら高速巡航トレーニングの最中らしくスピードは多分60km/hr近くは出ている。

小生がいくら頑張っても絶対に出せない速度だが、それをずーっと維持する心肺と脚力というのはどんな感じなんだろう?

それにしても、あれだけ両者が接近して走るためには、2人の信頼関係が不可欠なんだろうなぁ。

 

河川敷道路は、名神高速渡河僑付近で樹木伐開作業により通行止めになっており、やむなく部分迂回を余儀なくされたが、そこで工事車両の交通整理に当たっていた警備員のおじさんに ”無料配布” の看板の件について尋ねると、堤防の下を指さして「あの木材ですよ」と教えてくれた。

そこには1mほどに裁断された樹木(河川敷で伐開されたもの)が幾つかのブロックに分けて並べてあり、それが謎?の無料配布の品物だった。

「なるほど資源の有効活用か、国交省も考えたもんだ」と得心したが、「あれってどう使うのかな?(生木は薪材にするのも大変)」「無料配布の広報はどうしたのかな?」と新たな疑問がまた生まれたのだった・・・。

最近各所で通行止めに出くわすが俺って何か悪いことした?

堀津町で河川敷道路へと戻って更に南へと走る。

桑原町辺りまで来ると西から南へと視界が大きく開け、そこに展開する濃尾平野西縁を成す養老山地の青い連なりと、その途切れた先の伊勢湾へと続く白みがかった空間が、妙に感動的な景観となって小生を束の間の至福と誘ってくれた。

少し強くなった横風の中を河川敷道路終点の防災船着き場まで走り、そこで折り返して南濃大橋を渡り平田リバーサイドプラザへと向かう。

広がる景色を堪能した後は南濃大橋を渡って平田リバーサイドへ向かった

南濃大橋上から俯瞰したリバーサイドプラザの全景

7月初旬以来で久々に訪れたリバーサイドは、人影もなく閑散としていて寂しい雰囲気が漂っていた。(多分冬を前に葉を落とした木立のせい)

小休憩をとったものの、どこか重い気分が残るまま此処でのルーティンである1時間走(約4kmの周回路を7周ほど)を始めたのだが、予想通りと言うべきか、今日は4周回目の途中で脚の疲労と息切れで見事にギブアップ。

「こんな強い風の中無理だよな」と自分への慰めの言葉を呟きながら最寄りのベンチへと向かう仕儀となった。

小休憩で疲れをいやしてから1時間の周回走に入ったのだが・・・

実は風に気力が負けただけで身体の疲労は大したことは無い。

15分もすると体力も回復したので、「もう長居は無用だな」と帰ることにした。

帰路はとりあえず堀津までは往路と同じだ。

 

南濃大橋を左岸へと戻る際に長良川上流方向に視線を投げると、遥か遠くに雪を被った御嶽山乗鞍岳笠ヶ岳が望見でき、そこから更に左に視線を移すと、重層する奥美濃の山並みの奥から白山も顔を覗かせていた。

この季節に遠くの山がくっきり見えることはあまりないので、風が空気中の塵埃と水分を飛ばしたお陰でこの景色が愉しめるなら、今日の強い風もまた有りかなと手前勝手に思って独り嗤った。

奥美濃の山嶺から顔を出す白山       北アルプスや御嶽もくっきり

午後から風は一層強くなり風上側に少しバイクを傾けないと安定して走れない。

「やっぱりこの強風は嫌だな」とまたぞろ憤懣が噴出したので、堀津の通行止め区間で河川敷道路を離脱した際に走路を街並みを縫うルートに変えることにした。

ようやくこれで”風よさらば”となるのかな・・・。

 

 

 

 

 

 

秋と冬の狭間で

 

今更言うのもなんだが、不条理が罷り通るこの世界にやるせなさが募る。

新聞を開くと、目に付くのは各地での紛争やそれに苦しむ人々の動向ばかりで、明るいニュースは殆どない。

ウクライナパレスチナミャンマー、香港等々、強者がその武力を使って弱者を従えようとするのは ”犯罪行為 ” 以外の何物でもないのに、それを皆でこぞって糾弾・阻止できないのは、そこに各々の利害と思惑が絡むからだが、それをうまく調整して収める役割を担う国連が全く機能してないことが、これらの問題の根を一層深くしている。

 

先の大戦から78年を経てもう遠い過去の事績となったその戦勝5ヶ国が、安全保障理事会で拒否権を持つ常任理事国を永続的に続ける陳腐な制度的弊害が、今ここにきて顕著になってきた。

本来、拒否権などと云う国連の合意形成を簡単に反故にする特権は、どの国であっても持つことは許されないものだ。

特に近年は、米国、中国、ロシアが当事者or後ろ盾となる国際紛争が多いだけに、その思いを強くするのは小生だけではあるまい。

 

グローバルサウスの台頭という国際情勢変化を鑑みても、国連は今大きな曲がり角へと差し掛かっているのは確かな事実。

あえて暴論を吐けば、今の安全保障理事会は即刻解体して、新たな理念に基づいた安全保障体制を再構築すべきだろう。

そうしなければ世界の将来は”本当に危うい”ところまで来ている。

 

とまぁ、そんなことをつらつら思うのだが、現実世界は昨日と変わることなく今日明日へと流れていくのは解っている。

それ故に、小生のやるせなさは明日以降も朝新聞を開く度に訪れるのだ・・・。

 

 

さて今日のライドでは、根尾へと向かうことにした。

昨日、市立図書館に向かう道すがら何気に北西方向を望むと、濃尾平野の北西端をから奥美濃へと続く山襞の奥に雪化粧した幾つかの山があり、その中でもひと際白く輝いて能郷白山が見えていた。

その時「もう山は冬だなぁ」の感慨と共に、「これから数か月は根尾方面へは行けなくなるなぁ」との思いが脳裏をよぎり、それで年内最後の根尾行を決めたと云う訳だ。

 

いつもの様にまずは長良川右岸堤防に出てから、広がる視界の中で走行ルートの概略を頭に描く。

河渡⇒北方⇒真桑と走り、古墳公園通りを北上して織部からは根尾川沿いを万代橋へ、その先は右岸沿いに走路を替えて根尾まで走る。

「よしこれで決まりだな」と独り納得してペダルを踏み出す。

天気は雲一つない快晴で、風はほゞ無く気温も快適というか重ね着したウェアでは少し暑いくらいだ。

長良川堤防から根尾方面を望む(右奥の雪山が能郷白山

途中の信号交差点が続く箇所でその都度停止させられイラつきながらも、まぁまぁ順調に走って織部のセメント工場脇まで来た。

此処からは走路も山間の道となるので、車と並走する煩わしさから解放されて走り易くなる。

それにしても対岸の山は随分と削り取られたもんだ。

その昔(小生が高校生の頃)この近くに住む友人を訪ねて来た時分には、まだその山体の大部分が残っていた様に記憶するが、日本の経済成長と軌を一にするセメント需要の高まりと共に、徐々に削られて今の姿になったことを思うと感慨深いものがある。

今は経済的活力を失ってしまった日本だが、またいつの時にかあの時代の再来と云える活況が人々に至福感をもたらす日々が来るのだろうか?・・・。

根尾川に沿って走路は奥へと続く

樽見鉄道のローカルな沿線風景や根尾川の渓谷美へと寄り道しながら、快適にペダルを漕いで鍋原まで走って来たのだが、これから細い山道という所で事態は暗転し、予想外の通行止めに行く手を阻まれた。

「なんだよぉ」と愚痴が口から洩れるが、先に進むには走路を替えるしか手はない。

仕方なく橋を渡ってR-157へ出ると、そこからは山越えの2.5kmの長い上り。

斜度はきつく無いがダラダラ上がるので、根っからの坂嫌いの小生には少なからず嫌な道だけど我慢するしかないと諦めた。

長い上りに比べて下りはアッという間に終わり、「これってちょっと不公平じゃない」と思うのは小生の狭量さの表れか?

  静かな佇まいの高科駅         前方の踏切を気動車が通過した
  陽光に煌めく根尾川渓谷        無情の通行止めに行く手を阻まれる

高尾で根尾川右岸へと戻って(車通りの多い道はあまり走りたくないので)開運橋まで走って来た。

此処からは能郷白山が良く見えるが、まだ遠くにあって満足できないので、今日はもう少し近くまで行くことにした。

多分(近過ぎると前山が隠して見えないので)、根尾谷を馬坂峠への分岐辺りまで詰めれば更に大きく望見することができる筈だ。

根尾谷は能郷白山の麓へと続く(開運橋上から)

根尾谷右岸側は山陰になって少し寒くおまけに路面も濡れていたので、R-157を走れば良かったと後悔しながらも、そこはちょっと意固地になって走り続ける。

と言うのもR-157を走っていては前方視界を塞ぐ山で能郷白山が全く見えないからだ。

 

大井の集落を過ぎて更に奥へと進むと、純白の雪に覆われた能郷白山が随分と間近にと迫ってきた。

この先馬坂峠への登路に入ると山に視界を遮られるので、白山を望見するのはこの辺りが限度、「此処までかぁ」と名残を惜しむ様に暫く山を眺めてから長嶺の集落へと道を下ることにしたのだった。

能郷白山(1,617m)は越美(福井と岐阜)国境山域(両白山地)の最高峰で、その雄大な山容からすれば日本100名山に名を連ねても異論は無いが、深田久弥は何故かこの山を選ばなかった。

陳腐な郷土愛と言われたらそれまでだが、山好きの小生としてはそれが至極残念だ。

大井集落先の林道から望む能郷白山

うすずみ桜の里でトイレ休憩をとってから帰路につくことにした。

ここの日帰り温泉は泉質が良く露天風呂からの眺望も好いので、過去に何度か利用したことがあったが、残念ながらこの3月末で休業になってしまった。

比較的空いているのも小生がここを好む理由だったが、経営的にはそれが休業に至った原因かも知れない?と考えるとちょっと複雑な心境だ。

老朽化等の施設的問題は無さそうなので、今は何はともあれ早く再開して欲しいと手前勝手に思っている。

温泉広場からは雷倉山から馬坂峠にかけての稜線がよく見える

R-157は温見峠を経て大野(福井県)へ至る国道だが、この時期は峠前後の山道が雪で通行困難になるため、樽見から先は車通行が極めて少ない。

そんな訳で、道沿いに残る秋の名残の紅葉を眺めながら走っても危険事態はまず起こら無いので安心だ。

物見遊山気分で樽見⇒高尾と走り、日当トンネルを貫けたところで「さてどうするかな」とこの先の走路を思案。

R-157をこのまま走るか?or金坂峠を越えて里山かおり街道を走るか?だが、往路との重複をなるべく避けるなら後者だなと結論してそちらに向かうことにした。

名残の紅葉に駆け去る秋の風情を惜しんだ・・・

走路の概略が決まれば後は走るだけ。

まだ今日の予定走行距離の1/3ほどが残っているので、ちょっとダレた気分を払拭するべく、ペダルを漕ぐ脚に力を込めて気合を入れた。

   金坂峠を越えて里山かおり街道へ    街道沿いの里山はすっかり冬支度だった 

 

 

 

 

 

 

 

秋色も様々

 

この年末年始も東京から孫達(姉弟)が来るというので、老人世帯にインフルエンザは禁忌とばかりに早速予防接種を受けてきたのだが、それをLINEで次女(姉弟の母親)に知らせると、「二人ともインフルエンザにはもう罹患して治ったので心配は無用」との返事が戻ってきた。

何でも国分寺市辺りではインフルエンザのピークは既に過ぎて、学級閉鎖している学校は無いとのこと。

何事も地方の先を行く?大都会のこと、”然も在りなん”と妙に納得した次第だ。

 

一方お隣の中国では今、子供達の間で呼吸器疾患が急増したり、診断のつかない肺炎のクラスターが発生したりしていて、その病原体について保健当局では、インフルエンザウイルスや呼吸器合胞体ウイルス(RSV)、小児が罹り易い肺炎マイコプラズマ等既知のウイルスとの見解を示している様だが、このWHOへの報告自体も、「本当かな?」と全面的に信用することが出来ないのは、過去(4年前)に新型コロナウイルスの発生を国として隠蔽(その後報告)したことが影響している。

 

最近の中国は、国内での言論統制を一段と強化して、専制主義国家の色合いを更に濃くしているが、これは中国国民にとって不幸なだけにとどまらず、世界中の人々にとっても大きな災いと言える。

その証拠となるのが、今回の新型コロナウイルスによるパンデミックで、武漢で最初の感染爆発が起こった時に、当局が正確な情報を世界へと発信すると共に、内外の協力を得てワクチン開発や防疫措置をおこなっていれば、全世界を巻き込んだ未曾有の大惨禍は防げたかも知れない。

 

今は唯、現在中国で患者急増している呼吸器疾患が、新型コロナパンデミックの再来とならんことを天に祈るのみである・・・。

 

 

さて今日は、美濃市の「大矢田神社の紅葉でも見に行くかぁ」と窓外の天気を観て思いついたので、遅まき(もう10時近い)ながら出掛けることにした。

 

まずは街中を抜けて長良川へと向かう。

岐阜から美濃は長良川に沿って遡上するのが最短なので、小生が美濃方面へと走る場合はこのルートを選択するのが常、走路も車通りの少ない道を選んでいけるのが好い。

長良川河川敷に入ると一気に視界が開けて、その中を疾風を全身に感じながら走るのは実に気分が良いもんだ。

澄み渡った青空を映す清冽な川の流れが、その気分を更に押し上げてくれた。

長良川に沿って金華山の麓へと走る

金華山の麓を抜けて日野辺りまで来ると、景色は変わって山が視界を占める様になる。

この辺りの落葉樹も色付き始めているが、寒暖差が大きくないせいか或いは樹種によるのか、何れにせよあまり綺麗でない(小生の美観だけど)のは少し残念。

まぁどだい、高山地帯の紅葉の色合いを低山地帯で期待するのが”お門違い”なんだろうけど・・・。

この先しばらくは山と川に挟まれた道を行く

更に走って芥見まで来ると、進行方向の正面奥手に中腹まで雪化粧した御嶽山が見え、その実に堂々とした山容に惚れ惚れする。

山登りをしてた頃は残雪期を含めて何度も登った山だが、今はこうして唯遠くから眺めるだけで、正に”御嶽は遠くなりにけり”と云う感じだ。

その左、前山の肩から顔を覗かせるのが乗鞍岳だが、此処からだと白い頂がほんの少し見えるだけ。

小高い所へ上がれば「もっと見えるかな」と思って辺りを見回したが、そんな所は何処にもないので諦めた。

さすがに3千m独立峰の御嶽山は風格がある

千疋⇒武芸と辿って大矢田まで一気に走って来た。

天王山の山懐に在る大矢田神社へと続く長く且つ緩い上りは、走り続けてきた脚に徐々に効いてくるがあと少しの辛抱。

ギアを1段落として、周りの景色に眼をやりながらゆっくり進むと、やがて視線の先に神社の参道が見えてきた。

天王山に向かって緩い登路を行く

楼門の傍らにバイクを預けていざ境内へ。

紅葉見物の人出はソコソコあるのだが、TVで観た有名観光地(京都や高尾山など)の喧噪とは当然雲泥の差。

神域には荘厳・静謐さが不可欠の要素で、行き交う誰もがそれを十分に心得ている様で、紅葉の木々を見上げて静かに楽しむ姿が、小生にはとても好ましく思える。

奥へと進むに連れて、陽光を浴びて紅や黄或いは緑に輝く葉々が、美しい空間を其処 彼処に創り出しており、それを愛でる小生を束の間優しい気分で満たしてくれた。

古色を帯びた楼門をくぐって境内へ
陽光を浴びた紅葉は格段に美しく映える

本来なら長く急な石段を上がり本殿に参拝すべきだが、このところ足の具合がいまいち芳しくないので、ここは神様にお許しを貰って引き返すことにする。(多分だが心根の広いここの神様は笑って許してくれたんじゃないかな?)

帰りは屋台の出店が並ぶ方へ迂回したが、こんなところ(失礼)にも沢山の屋台が出るなんてちょっと意外。

そう言えば昔、親がテキ屋の親分だという知人(本人は親の生業を嫌って普通の会社員になった)がいたが、今頃あの人はどうしているんだろうなぁ・・・。

光と影は紅葉を美しく見せる

紅葉を満喫するため時間を使ったので、帰りはr-94に走路をとって駿速(あくまで小生の主観)で岐阜へと向かうことにした。

しかし、順調に走って加野まで来たところで、そのペースもスローダウンする憂き目に会う、何と番場山が長良川へと迫り出す隘路が土砂崩れで通行止めだ。

「なんてこった」と走路選択の誤りを今更ながらに悔やんだが、後悔先に立たずでもう遅い。

やむなく大きく山を迂回する道へと進み、お陰でペース上げる気力も何処かへ雲散霧消してしまった。

この先で通行止めなんて思いもしなかった(三輪付近)

雄総まで帰って来ると岐阜市街はもう近い。

美濃方面へライドした時の最後の休憩は長良河畔が多いのだが、この時期に「紅葉樹に囲まれた公園を外すのは野暮」と今日は其処へ寄り道。

住宅街の一角にある公園には小生同様に紅葉に吸い寄せられた先客が数人居て、スマホで写真を撮ったりベンチに腰掛けて談笑している。

それを横目に見ながら小生も傍らのベンチで一休み。

イチョウの色付きは少し浅いが、サンカクバフウは綺麗に紅葉しており、その色のグラデーションが何とも目に心地良い。

この景色も12月に入って木枯らしが吹き始めるまでと思うとチョッピリ淋しい気分に なるが、それが季節の移ろいという誰も抗うことの出来ない自然の摂理である・・・。

岐阜市街まであと少し(雄総付近)       明るい公園で最後の休憩  

 

 

 

 

 

 

壊れゆくガイア

 

岐阜市街から御嶽山(岐阜と長野の県境)までは直線で90kmほどあり、金華山などの山に登らないと見えないのだが、丁度手前に高い山が無くて、御嶽山の中腹までが良く見える大通りが近所にある。

昨日そこを通りかかったら御嶽山が白く雪化粧しているのが見えて、山好きの小生にはチョッピリ感動的な景色だった。

例年この時期には山頂付近に雪はあるが、中腹まで白くなることはほゞ無い(と言うか珍しい)ので、一昨日通過した低気圧は季節外れの寒気を日本列島にもたらしたと云うことなのだろう。

(今朝のTVの情報番組でも各地で予期せぬ降雪により混乱が生じたと報じていた)

 

ここ数年”季節外れの云々”と言う言葉を頻繁に聞く様になったが、これらの気象状況が今後も続く(人間の活動が主原因なのでその可能性は極めて高い)とすれば、やがては異常が異常で無くなって(通常への平準化?)季節そのものが変質していくことになるだろう。

その場合、人間は環境の変化に順応して進化してきた種だから、今後もその変化に対応して生きていくことが出来るだろうが、その能力を持たない数多くの生物種には過酷な運命が待っていると言えないだろうか?

 

端的な例が今秋も日本各地で頻発している”クマの人里への出没”だ。

クマだって好き好んで人里へ出て来る筈はなく、生息地の食べ物(木の実など)が異常気象で少ないから、生きるために仕方なく(脂肪を貯めなくちゃ冬眠出来ないもんね)危険な人間の住む人里へと下りて来ているに過ぎない。

知床の海岸を食べ物を探して彷徨う”極度に痩せたヒグマ”の映像は衝撃的だし、北極の海氷が溶けて獲物が捕れず”瘦せ細ったシロクマ”の映像も同様だった。

人間に犠牲を強いられれるクマの悲惨な姿

60年前にレイチェル・カーソンが”沈黙の春”と云う著書で、化学物質による地球環境の汚染に警鐘を鳴らしたが、今やCO2等の温室効果ガスがそれを遥かに超える規模で地球環境を破壊しており、その結果生じる異常気象により幾多の生物種が生存の危機に瀕しているのは周知の事実だ。

果たして人間という一生物に、他の生物種の生死を司る権利があるのだろうか?

地球温暖化を矮小化あるいは否定して、己が経済的な豊かさのみを求める人達に、是非とも質したい問いである・・・。

 

 

さて、この1週間は天候不順(雨・風・寒気)に加えて体調も不良だったので、バイクで何処へも出掛けることなく過ごしてしまった。

最近は1.5回/週(2週間で3回)の頻度で外走りしてるので、ちょっと後ろめたい気分も募ったが「もう無理出来る歳じゃないからな」と自分を都合よく言いくるめて居直った次第だ。

だけど空いた時間?で、Varacan Specialの前輪のチューブ交換と車体の水洗いをやったので、まんざら無為に過ごした訳で無いのが救いかも?

 

此のところ秋冷も本格的になって来たので、次週は近場の ”紅葉の名所” を訪ねたいと 思っているが、果たして天候は小生のささやかな望みを叶えてくれるかなぁ・・・。

色鮮やかな両界山横蔵寺の紅葉(2022年)