風を道連れに

☆あるボッチローディーの独り言☆

壊れゆくガイア

 

岐阜市街から御嶽山(岐阜と長野の県境)までは直線で90kmほどあり、金華山などの山に登らないと見えないのだが、丁度手前に高い山が無くて、御嶽山の中腹までが良く見える大通りが近所にある。

昨日そこを通りかかったら御嶽山が白く雪化粧しているのが見えて、山好きの小生にはチョッピリ感動的な景色だった。

例年この時期には山頂付近に雪はあるが、中腹まで白くなることはほゞ無い(と言うか珍しい)ので、一昨日通過した低気圧は季節外れの寒気を日本列島にもたらしたと云うことなのだろう。

(今朝のTVの情報番組でも各地で予期せぬ降雪により混乱が生じたと報じていた)

 

ここ数年”季節外れの云々”と言う言葉を頻繁に聞く様になったが、これらの気象状況が今後も続く(人間の活動が主原因なのでその可能性は極めて高い)とすれば、やがては異常が異常で無くなって(通常への平準化?)季節そのものが変質していくことになるだろう。

その場合、人間は環境の変化に順応して進化してきた種だから、今後もその変化に対応して生きていくことが出来るだろうが、その能力を持たない数多くの生物種には過酷な運命が待っていると言えないだろうか?

 

端的な例が今秋も日本各地で頻発している”クマの人里への出没”だ。

クマだって好き好んで人里へ出て来る筈はなく、生息地の食べ物(木の実など)が異常気象で少ないから、生きるために仕方なく(脂肪を貯めなくちゃ冬眠出来ないもんね)危険な人間の住む人里へと下りて来ているに過ぎない。

知床の海岸を食べ物を探して彷徨う”極度に痩せたヒグマ”の映像は衝撃的だし、北極の海氷が溶けて獲物が捕れず”瘦せ細ったシロクマ”の映像も同様だった。

人間に犠牲を強いられれるクマの悲惨な姿

60年前にレイチェル・カーソンが”沈黙の春”と云う著書で、化学物質による地球環境の汚染に警鐘を鳴らしたが、今やCO2等の温室効果ガスがそれを遥かに超える規模で地球環境を破壊しており、その結果生じる異常気象により幾多の生物種が生存の危機に瀕しているのは周知の事実だ。

果たして人間という一生物に、他の生物種の生死を司る権利があるのだろうか?

地球温暖化を矮小化あるいは否定して、己が経済的な豊かさのみを求める人達に、是非とも質したい問いである・・・。

 

 

さて、この1週間は天候不順(雨・風・寒気)に加えて体調も不良だったので、バイクで何処へも出掛けることなく過ごしてしまった。

最近は1.5回/週(2週間で3回)の頻度で外走りしてるので、ちょっと後ろめたい気分も募ったが「もう無理出来る歳じゃないからな」と自分を都合よく言いくるめて居直った次第だ。

だけど空いた時間?で、Varacan Specialの前輪のチューブ交換と車体の水洗いをやったので、まんざら無為に過ごした訳で無いのが救いかも?

 

此のところ秋冷も本格的になって来たので、次週は近場の ”紅葉の名所” を訪ねたいと 思っているが、果たして天候は小生のささやかな望みを叶えてくれるかなぁ・・・。

色鮮やかな両界山横蔵寺の紅葉(2022年)